数学と自己愛

ついこの間、街中で信号待ちをしている時に赤信号だけれど歩道を渡っている人がいてふと思ったことがあったという記事。


街中、横断歩道。車もほぼほぼ通らない道での赤信号。途切れた先の道まではほんの2mほど。そんなところでいちいち止まるだろうか……。ところがどっこいなんと非合理的なことに自分は止まるタイプの人間だったりする。超見通し良いし、明らかに車が来る気配はないし数歩で渡れる距離だし、そこでいちいち立ち止まることは非合理的だしそれは真面目でもなんでもなくただの馬鹿だということは自覚していても四角四面に立ち止まる。なんなら後ろから抜かされても一人で止まってる。

なんで自分だけこんな馬鹿みたいに立ち止まってんだろ……と半年ほどだらだら考えた結果、『どこであろうとルールを守っている自分が好きなだけなのでは』という結論に辿り着いた。多分その通りなのだと思う。ということで(この世に渡っていい赤信号があるのかどうかはさておき、大半の人の認識として)明らかに通っても良さそうな赤信号にいちいち立ち止まる時間を『自己愛タイム』と名付けた。今日も自己愛タイムをしてきた。昨日もそうだったし多分明日も明後日も自己愛タイムを過ごす。たまに全く知らない誰かが同じように自己愛タイムに浸っているのをみるとホッとする。ああなんて無駄な自己愛タイム。

ちょっと時間的にやべえんじゃないかという時でも自己愛タイムに浸る。少しだけ「きっといいことが起こるだろう」なんて期待して数十秒を過ごす。車のためでもその辺にいる幼稚園生だか保育園生だかの手本になるわけでもなく自分のために立ち止まる。スマホも取り出さずただただ信号を眺め続ける。自己愛最高。数年前まで赤信号が苦手で赤信号を直視してられない時期があったから赤信号を平気で眺められるようになったのがちょっと嬉しいのもあるかもしれない。そんなこんなで自己愛タイムを送るのが習慣です。このくらいで良いことは起きないだろうけれど、良い気分にはなれるのでとりあえずおすすめしておきます。自己愛タイムはいいぞ。


さてはて、自分はほんの先週くらいまであることをすっかり忘れていた。高1の時に起きた数学事件のことをすっかりド忘れしていた。

高1の七月の期末テストの頃だった。部活に心血注いでいたというのもあったけれど、とにかく数学課題の指定された範囲を終えられそうになかった。期日までに提出できそうになくてばちくそ焦っていた。当時の自分はクソが付くほどの真面目で小中高と忘れ物や提出物忘れをほんの数回しかしたことがないような奴だった。忘れた時には三日三晩悔しさで落ち込むような奴だった。そういうのもあって課題を出せないなんてアイデンティティの喪失だとマジで心の底から思っていた。課題をきっちりやって忘れ物をしないことで何とか自己肯定感を保っていたので『課題を出せない=ぜんぶ終わり』の図式が頭の中で出来上がっていたのである。

その日はそれまでの人生の中でトップ3に入るレベルで焦っていた。「課題を出せないなんて終わりだ」と本気で思っていた。机の脇にハサミを置いて「課題が今夜中に出来なかったらこのハサミで首を掻っ切って死のう……」とまではいかないけれど、もし終わっていなかったら多分そのハサミで数学の教科書を破り捨てたかもしれないくらいには取り乱していたような気がする。記憶が曖昧なので盛ってるだけかもしれないけど。それにしたってとにかく焦っていたのは事実。ばちくそ課題の範囲が広かったし、先述の通り自分はクソが付くほどの真面目だったので答えを写すなんて考えはどっかにすっとんでしまっていた。必死に問題を解いていた。焦りすぎて(頭が悪いと思いたくないだけの言い訳だけど)ロクに問題も解けなくて、正解よりも不正解のほうが多かった気がする。

こんな馬鹿みたいに広い範囲を指定してくる学校はどうかしていると思ったし、平気な顔で解いてくる同級生もどうかしているとマジで思っていた。入試に挑戦!みたいなコーナーもあってキレていた。課題しながら泣いていた。小学一年生の時に一行日記の書き方を知らなくて(年上の兄弟や知り合いがいなかったし一行日記の存在を知らなかった)夏休み後半になって親に聞いて、毎日書く日記だと知った時に絶望して泣いたが、それ以来ぶりだった。泣きながら数学を解いた。

結果、提出期限の数日前には完成した。完成した時にはもう苦労なんか忘れ多分にっこにこで課題をやり遂げた勢と共にどや顔をしていたと思う。


それから数か月後のことだった。そもそも課題の範囲について自分はとんでもない間違いをしていたことに気付いた。

テストの二週間前にテストの時間割と共に、全ての教科のテスト範囲が載った範囲一覧表プリントが配られる。課題も基本的にそのプリントに載っていた。ただ、授業中に特定の教科だけの範囲プリントが配られることもあった。例えば古典の授業中に、古典の先生が古典のテスト範囲を記したプリントを丁寧に配ってくれたり。

数学も授業中に範囲プリントが配られた。

自分は一覧表プリントのほうだけ見れば良いものだと思っていた。そこには『数学○○(課題で使うテキストの名前)、p100~161』と書かれていた。自分は一学期の中間も期末も一覧表プリントだけを見て指定されたページの問題を解いた。

しかし授業中に配られた範囲プリントにはなんと

『数学○○、課題問題番号101、102、103、105、110、111、112、120……』と記されていた。

そう、一覧表に載っていたのはあくまでも『テスト範囲』の部分であり、『課題』の部分はまた別であったのだった。課題の分は授業中に配られたプリントに書かれていたのであった……。

そして私は一覧表しか見ていなかったので……まあそういうことである。

丁寧に課題の範囲外までやっていたのであった。

なるほど、範囲が広く何で一問も解けない入試問題出るねんこの野郎と思っていたけど勝手に追加したのは自分だったのか……。

今までそんなミスをしたことがなかったので素直に驚いた。まさか範囲の捉え違いをしているだなんて思わなかった。

もしもあの時課題が終わらず、机の脇に置いたハサミで自分の首を掻っ切っていたのならきっと翌朝の一面には『高校生、課題の範囲勝手に間違え自殺か』と載っていたのだろう。そして青い鳥のトレンドとなり『マジワロタ』となんちゃらデジタル新聞の記事を引用して呟かれるところだった。ああ、間抜けな最期にならなくて本当に良かった。


この話で言いたいのはくれぐれも高校生は課題の範囲を間違えないようにしようということでも間抜けな葬式を迎えるのはほんの小さなミスからだということでもなく、『自己肯定感、高くあれ』ということ。

課題なんて一回くらい忘れても別に良いし、やってなかったらやったなかったで良いし、例え一教科単位落としても、きっとどうってことはない(多分)。履歴書に『数学課題間に合わなかったことがあるか Yes/No』なんて欄はないので多分全然問題ない。

信号を待つ自己愛タイムのことを考えてそれから連想的にこの数学事件のことを思い出した今、課題ひとつでそんな思い詰めることはなかったんだよなあ、なんて思ったのでした。

本当、課題を出すことが自己肯定の全てのように思う必要は何一つないんだぜと当時の自分に教えてやりたい。そんな考えしてると視野が狭くなるとも教えてやりたい。自販機で飲み物を買ってムダ金使っても喉が潤ってちょっと幸せになれれば全然良いんだということもついでに教えてやりたい。

それに今となっては互除法も出来ないし積分もやり方忘れたし、因数分解ですら危ういかもしれない。それに比べりゃ高校生賢い。数学受けてるだけで立派な気がする。

自己肯定感、高くあれ。

そして、多分また明日も気長に自己愛タイムを過ごす。



※この記事は事実をベースにした4割フィクションです。