アダスミニガンタローゼの島

突然だけれど「世界で最も美しい島はどこか?」と問われたらあなたは何と答えるだろうか。

自分は迷わずアダスミニガンタローゼの島と答える。

アダスミニガンタローゼの島はオセアニアの東の方に位置する小さな島である。最寄はニュージーランド。厳密には最寄りの島はまた別の島なのだけれど、この説明の方が分かりやすいと思うので最寄りはニュージーランドということで。大体その辺りにあると思ってもらって良い。アダスミニガンタローゼの周辺は海が荒れており、行くまでにはニュージーランドから三日もかかる。アダスミニガンタローゼへの船は一週間に一度しかない。まさに秘境の地。

アダスミニガンタローゼの島は人間が歩いて10時間くらいで一周できる(島の人に聞いただけなので実際にどうかは知らない)。

アダスミニガンタローゼに行こうと思ったハッキリした理由はない。

今までの人生でせいぜい修学旅行の時しか飛行機に乗ったことがなかったけれどある日いきなり思いついて、パスポートをとってネットか何かで知ったアダスミニガンタローゼへ旅をした。確かいつかどこかのブログで『めっちゃ綺麗だよ!!』みたいなのが書かれてあって何となくアダスミニガンタローゼのことが頭の片隅に残っていた。

その島ではブァフェルダ教という宗教が信仰されている。アダスミニガンタローゼの住人は皆その神を信じているし、その神の他に神はいないと思っているらしい。これは飛行機の中のパンフレットで読んだ。ブァフェルダ教以外の宗教が存在する事を彼らは知らずに死んでいく。彼らはイエスもブッダもシヴァも知らない。

ラーマーヤナに出てくるシーターがラーマを信じ続ける心も、聖書のあれやこれやとか(聖書はちゃんと読んだことがない)、日本人が何でもかんでも神にしたがる事も何も知らない。しかしなぜだかプリキュアは知っていた。つい最近日本からの観光客に教えてもらったらしい。

先述したように一週間に一度しか船が出ていないため必然的にアダスミニガンタローゼには一週間滞在することになった。飛行機やら船やらにのっている時間の関係もあるので実際の旅行期間は二週間ちょっとくらい。


ところでブァフェルダ教は『忘れることが全て』という教えがあるらしい。死んだ人を忘れることによって、その死んだ人の魂は解放され冥府の国に行くことができるらしい……冥府の国ってどこなんだ。でも聞いてみると地獄みたいな概念はまた別にあるらしかった。何だそりゃ。

ブァフェルダ教にはそんな、ちょっとどころかかなり偏屈な(失礼)宗教があるのでアダスミニガンタローゼの人々は人が死ぬと、途端にその人の事を忘れようとする。

滞在している間にバチェニレという少女(すごいおしゃべりでおしゃれな子だった)が病気に罹って死んだ。彼女はまだ生まれて十四歳だった。

アダスミニガンタローゼにはホテルは一切ないが民宿みたいなのがかろうじてある。ネットで予約はできない(そもそもネットがない)ので行ってからその場のノリで「泊めてくれ!」みたいなことを言って泊めてもらう。

その民宿でかなり色々バチェニレには歓迎してもらってたので勝手に親近感を抱いていた分、割とショックが大きかった。民宿にいる女の子が死ぬとは思わないじゃん……。

そんなこんなあったので島を離れる一日前に「ご愁傷です」みたいなことをバチェニレの家族に何とか言葉にして言ってみたところ、「バチェニレって誰のこと」と言われた。マジでばちくそ驚いた。


あんたらの娘やん!!!!!!!


勿論そう簡単に忘れられるはずがないだろう。だから彼らはきっと「バチェニレのことを忘れた」という嘘をついているのだという考えに至った。そしてその嘘を誰にも明かさない。みんな、自分以外の皆はバチェニレのことを忘れているのに自分だけは覚えていて不道徳だ……とでも思っているだろう。

ブァフェルダ教の教えが『忘れること』だからなのかアダスミニガンタローゼの人々は文字を持たない。記号も使わないし、指文字も使わない。

人と話すときは背筋をピンと立て、手は体の横に添えピクリとも体を動かさず話すのがマナーとされている。島にいる間はそれに倣っていたんだが意外とめちゃめちゃ疲れる。

アダスミニガンタローゼにやってきた旅行者が記録を取る事も固く禁じられており、伝聞でしかこの島のことは伝わらない。

島に出た後に記録をし、世に本となって出たものは幾つもあるが、アダスミニガンタローゼの人々が直接記した本はこの世のどこにもない。

忘れることがブァフェルダ教の全てだから、認知症になってしまったお年寄りはブァフェルダ教ではいたく丁寧に扱われる。

この島では認知症の概念はなく、彼らはただ『アダス・ミニ・ガンタローゼ』と呼ばれる。

意味は『小さきブァフェルダの神』と言う意味。島の名もこれに由来する。

実は自分の祖父が認知症なので、自分のおじいちゃんもここに来ればアダス・ミニ・ガンタローゼなんだなあ、とぼんやり思った。だからといって何と言うこともないけれど。


アダスミニガンタローゼの島に行って思ったことは余り嫌な思い出も何でも忘れすぎてはいけないということ。

アダスミニガンタローゼの人々、専らブァフェルダ教を信仰している人は先述の通り死んだ人のことを忘れようとする。一見それは良いことのようにも思えたけれど日常生活には影響が大きすぎる。どの程度『死んだ人のことを忘れる』のか定義されていないので死んだ人から教えられたことすら忘れたふりをしようとする人もいる一方、死んだ人から教えられたこと自体は忘れないことにするけれど、誰に教えられたのかは忘れたふりをしようとする人もいる。これまた先述の通りアダスミニガンタローゼには文字で記録する風習がなく、ブァフェルダ教の教えも全く記録されない。明確な基準がないから死んだ人に対して『どの程度忘れたか』の基準は人によって違う。かといって互いに話し合うわけにもいかないのだろう、アダスミニガンタローゼの島に住むに人々はそのまま何とかうまくやって、どうにかして、暮らしている。その暗黙の了解というか「空気を読め」といったような雰囲気は日本だけでなく別にどこの国でもあることなのだなということをそこで知った。


この旅行で分かったことは、アダスミニガンタローゼの島の人々と違ってブァフェルダ教を信仰していない自分はそれなりにラクに生きていられるということ。特別嫌なことがあると、この嫌な嫌な記憶が無くなれば良いとある日は頭を机の脚に打ちつけたり、ある日はストレスの余り髪の毛をぶちぶち引き抜いたりしたことがあったが、嫌な記憶を覚えられているからこそ他者とそのことを話し合ってなんとかやっていけるのだと思った。忘れたふりなんかしていたら他者に「つらすぎて無理」とそもそも話すことすらなかなか出来なくなるし、つらいことを人に話すことによって生まれる友情みたいなものもきっと生まれないままなのだ。

余り人を不幸だと決めつけるのは良くないことだが、自分はアダスミニガンタローゼの島の人々は不幸だと思う。バチェニレが死んだ悲しみを誰にも分かち合うことができず、多分一人でずっとそれぞれがつらいままなのだろう。今もずっと。

バチェニレが死んだ翌日、バチェニレの母親は入水したし(未遂で終わった)、バチェニレの祖母は息子に向かって「殺してくれ」と頼んでいたのを知っている。忘れたふりをしなくてはならないということはつらいことなのだろう。

今からもうずっと前、結構嫌なことがあったがなんとかそこから立ち直った身としては「アダスミニガンタローゼの島に生まれなくて良かった!」と思う。そこに住んでいたら自分はどうなっていたかを知らない。


嫌なことは覚えたままだけれど、きっとそれで良い。何から嫌なことがあるたびに誰でもきっとアダスミニガンタローゼの島の人々のようになりたいと思うかもしれないが、自分としては全くお勧めはしない。


ちなみに、調べれば何でもすぐわかる世の中だし、余りノンフィクションぽくかけた自信がないので正直に白状しておくが、アダスミニガンタローゼなんて島は存在しない。もちろんブァフェルダ教も、バチェニレも。あとパスポートも持ってない。

よくファンタジーの中に身を置いて頭の中を整理するのでこれはその一環。ファンタジーはこれでおしまい。