近所の小樽運河

家の近くの週に1~2回くらい通る道に小樽運河がある。週に数回、その小樽運河に架かる橋を通る。その小樽運河は観光名所でもなんでもなく、魚が跳ねていたり釣りをしている人がいたり船を走らせていたりする人もいる。その運河には海水が流れている。

つまりそこは小樽運河ではない。そもそも運河でもないし自分が勝手に小樽運河に見立てているだけの場所だ。要するにそこに実際にあるのは日本の片隅にある何でもないただの景色。きっと他の人から見るとそんなにきれいでもない景色。自分も何年かその道を通っていたが、そこが小樽運河だと気付いたのは本当にごく最近のこと。最近、その小樽運河に架かる橋をよく通るようになって、ようやくそこが小樽運河だと気付いた。

人にそこが小樽運河だと言っても恐らく分かってはくれないだろうな……みたいなことを、小樽運河を通るたびに思う。「何でこれ(自分にとって素晴らしい何かしらのもの)が他人に通じないんだ??どうしてだ?どうしてだ?」となったことが誰しも多分一度くらいあるとは思うのだけれどまさにその感覚。誰かに小樽運河のことを話したことはないけれども多分通じないだろうなあ、となんとなく思う。もしかしたら誰かにも小樽運河に見えているかもしれないし誰かを連れて「ここが小樽運河!」と紹介しろよとも思われるかもしれない話なんだけど、誰かにそこは小樽運河じゃないと言われてしまえば自分の小さなファンタジーが壊れるのでそれだけは避けたい。まあそこは小樽運河ではないんだけどさ。築数十年のきたねえ白の住宅がいくつも脇に並んでいるし『何々丸』と書かれた船があっちこっちに停泊しているしちょっと目を逸らせば遠くに何かショッピングモールみたいなのが見えるし。小樽運河とは程遠いよな。まあでも実際の小樽運河も写真で見るほど綺麗ではないんだけど……(私の小樽運河のほうがよっぽど綺麗……)。 

そんな小さな小さなファンタジーを壊さないために、自分は誰にもそこに小樽運河があるとは言わない。その小樽運河は私の中だけにある……というのは少し傲慢なのかもしれないけれども、その小樽運河はきっと私にしか見えていない。



少し話は変わるが、夏頃に近所の小学生が戦いごっこ……みたいなことをしていた。ある数人が段ボールで要塞を作って宝物を守って、ある数人がそれを攻め落とそうとあらゆる策を尽くしていた。きっと彼らには段ボールで作った三十センチの薄い壁が、難攻不落の高い高い要塞に見えていて、その目に見えない宝は自分の命よりも大切で、誰もが勇敢な兵士に見えていたんだろう。傍から見ていた自分にはもう段ボールの切れ端にしか見えないけれども彼らの中には共通の小さなファンタジーがあったのだろう。年を重ねるごとにそんな風に誰かと小さなファンタジーを共有することは次第になくなっていく。誰かにファンタジーを壊されるか自分でファンタジーを壊すかして、そのファンタジーは消える。

小さい時には押し入れは無限に広がる空間だった。椅子に座る大きな人形は夜中に動き出して誰かを追いかけていた。小学生の頃、学校の自分のロッカーには誰かが住んでいた。給食の時には自分の箸箱は人になった。中学生の頃にはカーブミラーに家族がいた。高校の頃の通学路には湖にそびえ立つ古城があった。

もうすっかり誰かとそんな小さなファンタジーを共有する事はなくなったが、今の自分には小樽運河がある。今までたくさんのファンタジーが壊れていったが、もう小さなファンタジーを殺さないでいられる方法を知っている。小さなファンタジーが誰にも殺されない方法を知っている。誰にもそのファンタジーを語らず、頭の中に留めるのだ。

永遠にあの場所が小樽運河であってほしいな、なんてそんなことを思う。今日も小樽運河を見てきたがいつも通り泣きたくなるくらいに綺麗だった。

もうあそこに小樽運河って書いた看板たてようぜ。