よるつる便 2

【1】

 ノートの書き始め、まず日付を書こうとしたその瞬間に手が止まった。でも手さえ動けば日付が記せるとごくごく当たり前のことを思って、脳にあらがい文字を書こうとしたら指が内側から震えてきて脱力して急に文字が書けなくなった……ということがあった。頭では「これは絶対自分の脳のバグで、動かそうと思えば絶対に動くし、ちゃんと字を書ける」と分かっているものの、指は内側から震え続ける。もう片方の手で震える手をなだめて字を書いた。手で手を支えて何とか日付を書ききった。

そのあとは片方の手の支えを無くしてノートの片隅に「あいうえお」を書き続けた。その字は利き手でない手で書いた字よりも崩れていて薄かった。それは10分くらいですぐに収まったがその10分は永遠に感じられたし、実際今でもそのことを覚えているからある種永遠になりかけているのかもしれない。

 それが起こって数日後にまた同じことが起こった。が、以来、それが起こることはなくなった。しかし未だにノートに日付を書くときにそのことを思い出してしまって、震えて文字が書けなくなるほどのことはないが、手が止まる。

現物を残していた。高2の数学の時間に起こったことだったらしい。


【2】

 人にメッセージを送るときに文体に死ぬほど迷う。何なら文に限らず口頭でもどの口調にすればいいのかいちいち迷う。小説は一度決めたら終わりだし、それは私自身の言葉ではないはずなのでこの現象は起こらない。

問題は主体が完全に自分にある時。

上司とか客とか先生とか、相手と自分の社会的立場がはっきりしている時ならその立場に沿って敬語で話して、テンションは状況によってスライドさせればいいからほとんど困ることがないが、そういう明確な基準がないときに果てしなく困る。友達相手に口調を迷うことがたびたびある。メッセージだと何回かやり取りしている間に蓄積された相手の文体とテンションの平均値をとってパクる……という手段が取れるからまだいいが、口頭だとそれを考える暇もないので、話し終わった後に一人大反省会が開催されている。その時話した内容についても勿論反省会の議題に上がるけど、それ以上に口調も議題に上がる。今ではもう面倒くさくなって全部同じでいいやと思い、メッセージや口頭でのやりとりでそれに困ることはなくなったが、ブログとSNS周りで困っている。文体で迷いすぎて幸か不幸かSNSから離れている。ブログもどういうテンションで書けばいいのかさっぱりわからなくなることがたびたび。「○○だよね!がんばろ!」という感じで書いている人の文章を見ると明るくていいなと思うし「○○である。だからこれは~」みたいなのはしっかり感あっていいなと思うし「○○です。○○してしまいました」を見ると丁寧~!と思ってそれもいいなと思う。

いざ自分がどれかの文体を選び取ろうとすると『私は、これか?』と思ってしまう。どの文体を選んでも『明るいキャラになろうとしている』『しっかりしてると思われようとしている』『丁寧だと思われようとしている』といった呪いというか、何かになろうとしている自分を感じられて、それがとてつもなく嫌に思う。人のブログを読んでいる時はそんな僻みというか穿った考えは思い浮かばないのに、自分の時だけそんなこと思う。結果、個性を消しに消しまくって、ニュース記事くらい個性の消えた文章になる。一応ブログとしてやっているのだし、さすがにこれはまずいと思って一通り書いた後で「○○~~~~~~!!!!!!!!」と叫んでみたり、語尾を変えたり言葉を崩してみたり(例:すごい→すっげー)フォントのサイズをいじったりして、個性を付け足す。で、何事もなかったかのように更新している。

「ここ、急に個性足したんだよな」と自分で覚えているので、あとから見返したときに「お前なあ……」とたびたび自分に嫌気がさす。

中二病だったころの自分を「黒歴史」というのもこれと同じ構図ではないか?成長したころに「何かになろうとしていた」ことが恥ずかしくて嫌でたまらなくなって、後からそれを黒歴史と呼んでいる。もうさすがに中二病が終わっているとは思いたいし、では今のこれをなんと呼べばいいのだろう?

自我の確立できていない大人?


【3】

 もし無限の時間と心の余裕とやる気と、それから不足のない生活と金が与えられたなら自分は何をするだろうと急に気になった。自分は音のクオリアと名前との関連についてひたすら調べるんだろう。優しそうな響きの名前の人だったら優しい人になるのかだとかそういうものを調査して統計を出したい。既にあるかもしれないにしても、その調査規模を上回る分母で統計を出したい。実在する人間だけでなく架空の人間についても調べて、その統計に差は出るのかということを調査したい。

 小説を書くときに「こいつは絶対にやさしいキャラにして、怖い名前とのギャップを出そう」と思って書いていても、名前につられて怖いキャラになってしまう、ということがたびたびある。これはクオリアというよりプラシーボ的なやつだろうか、分からない。

 自分の思い込みが激しいだけで完全にコントロールできる人もいるんだろうか。

 名前が先か、性格が先か、どうなんだろう。性差によって「あなたは○○だから▽▽ね」みたいなのはやめようね、というのがあるが名前はどうなんだろう。

 そのうち未来で、「クオリアが影響して性格が~」という話になって、名前は後からつけましょうみたいなことになったら面白いな。名前を呼ばれないことによって生まれる独自の個性があるとしたら、それは何だろう?

 自分の書く小説で呪文を言って魔術を行使していたりするが、呪文とはどういう原理で作られるんだろうと思っていた。自分の創作なのに。

疑問に思いすぎて途中から呪文を台詞として記さなくなったが、今になって「自分はこの言葉で、これが生まれると思う」という音のクオリア的なやつが影響しているんじゃないかと感じた。少なくとも私の創作において純粋な意味ではその通りだな。原理はともかくとして(創作に対するスタイルが、最初から念入りに仕込むというより、ある程度仕込んだうえで残りは後から自分で仕組みを発見するというものなので、こんな風によく後から理論発見・理論づけが行われている)。

ルイシアも呪文を唱えていた気がするが、ルイシアにクオリアという概念があるんだろうか。知ってても「クオリア?いわゆる気のせいというやつですよね?あはは」とか言ってそう。


【4】

 自分のことを人にあまり話さないから人に「付き合いが長いのに何してるかわからない」と言われたことが過去に何回かあった。が、自分ではすごく話しているつもりだった。

 でもよく考えたら事実でしかない事実(身長が伸びた、小説を何ページ書いた、どこに行った)しか話していなくて、事実に基づいた感想・感想から生まれた事実(どこに行って楽しかったか、なんでそこに行ったかとか)についてはほとんど話していないことに気づいた。もしかしてこれか?

 「何をしているかわからない」というより「なんでそれをしているか分からないから、次の行動が予測しにくい」ということなのかもしれない。

 こういう、人の何気ない言葉を覚えすぎたり考えすぎる癖もどうにかしたい。何気ない言葉は何気なく受け取って、何気なく忘れた方が良いんだろうか。

 最近、自分が何をしたかということを積極的に人に話そうと思って、割とマジで何でも話しているもののやはり感想が伴わないのではたから見ると個人情報ダダ流し人間に見えているかもしれない。人に自分の思考を言うのは正直かなり怖い。何が好きかくらいは言えるが……。自我の確立できていない大人だから出来立ての自我を乱されるのが嫌なのかも。子どもだ。


【5】

 ここ一年でバンジージャンプを2回とんだ。何で飛びたかったかと問われるとこれといって理由がない。急に飛びたくなった、終わり。急に事実だけできる。ここで何か理由を書こうとすると「何者かになろうとしている……」と嫌気がさすんだろう。

 急に飛びたくなった、終わり。

 飛んでいる時に唯一「あ、飛び降り自殺はやめよう。怖い」とだけ思った。2回ともそう思った。飛んだあとで「高すぎると考える間があって怖いんだから、死ねる程度に高くなかったら良いのかもしれない」とも思った。でも私が飛び降りて死ぬことはないと思う。


【6】

 口調を考えるのもそこそこ苦手だが人の名前を呼ぶのも苦手。これも上司とか客とか先生とか、立場がはっきりしている時ならその立場に沿って「○○さん」「▽▽様」「□□先生と言えばいいが……。

 例えば自分にAとBという友人がいたとして、自分とAが話している時にその場にいないBの話をしている時にBの呼び方に困ったりしていた。その場にいない人の名前の呼び方ですら困っていた……。Bが先生だとか上司だとかなら何も困らなかったが友人同士だと困っていた。

 マジのマジでやばいと思って、その場にいない人(B)の呼称はその場にいる相手(A)がどう呼んでいるかに合わせるという形でかなり前にこれは改善された。今はこれで困ることはほぼゼロに等しい。

 残された問題は対面……だが、対面している時は名前を呼ばなくても存外どうにでもなるので正直あんまり困らない。10年くらい付き合いのある友達でも全然名前を呼ばずに何とかなっている。なんでそんなこともできないんだよと思う人もいるんだろうけど、たぶん考えすぎが最大の原因だと思う。言葉が怖い。

 討論会とかディベートとかプレゼンとか人前で話すとか、それは全然平気だしむしろそういうものに喜び勇んで飛びつくくらい好きだが、人と会話するときの口調はわかんないし名前が呼べない。

 その場にいない人の名前を呼ぶのはどうにか平気になったし、対面だと名前を呼ばなくても何とかなるけど、それでもとりあえず人の名前は呼ぶべきだよな、という考えには至った。うまく逃げられるにしても逃げ続けることもできなかった。……ということで数年前からマジで何とかし始めた。会話の中に絶妙に名前を入れ混ぜたタイプの冗談を言うとか。

 それで今では、苦手だけども対面で相手の名前が言えるようにはなった……ただし、ここ数年で出会った人のみ。それ以前の付き合いの人はまだ対面では無理。マジで終わってる。

 でも、それ以前の付き合いの人については、メッセージとかならとりあえず名前を呼べるようになった。ほんの些細なことだけど成長してるのかもしれない。

 自我の確立されてない大人、今更の思春期かよ。


【7】

 秋の空気が好きなので秋が来てくれて嬉しい。夏が暑すぎて長すぎたから、ふと秋の空気だなと思った時に泣きそうになった。


【8】

 文章の最後に「以上」とか書かれていると妙に落ち着く。「○○話 終」とかもかなり好き。「△△に続く」とかでも、とりあえず一旦終わりということが分かるので好き。「緞帳降りる」とかも好きだったかもしれない。

以上。